かんもくフォーラム2017に行ってきました
名古屋ですよー名古屋!
普段音ゲー以外にはほとんど出費しない僕が大金使って行ってきました。関東ならともかく名古屋なら日帰りで行けますので。特急券買うの初めてだったので緊張しましたw
僕が緘黙症だった話は前の記事に書いてますので、そちらを先に読んでもらえれば
公式ホームページはこちら
フォーラムは、午前は臨床心理士の方の講演会、午後は緘黙症当事者・経験者によるシンポジウムという構成。簡潔ではありますが内容と感想を書いていきたいと思います。
記憶をもとに書いてるのでニュアンスの違いがあるかもしれません。詳細は公式のFacebookを見てもらえれば。
会場の様子
フォーラムが開かれた場所は「ウインクあいち」と呼ばれる、会場の貸し出しを行なっている公共施設。他の階層でも色々な催しが行われていたようです。会場は清潔感があり非常に良かったです。
入場は事前登録制で料金も必要だったので、ちゃんと入れるかなーって緊張しました。受付は数人いましたが、ほとんど緘黙症当事者のようでした。緘黙症の方が人と接する仕事するのって必ず自信になると思うので、いい試みだと思いました。
終了前に参加者に関する統計が発表されましたが、全国各地からいらしてたみたいで驚きました。沖縄から来たという方も。そういえばスーツケース持ってた方見かけましたし。年代は僕と同年代が多いのかなと思いきや、老若男女色んな方が集まっていました。
講演会
講師はかんもくグループ(北海道)の広瀬さん。臨床心理士で場面緘黙に関する支援を行なっているそうです。まさかの自分も緘黙症でしたとカミングアウトするサプライズがありましたw (大学入学時に思い切ってラグビー部に入ったことで治ったそうです。)
講演は「社会不安障害」にスポットを当てたお話でした。緘黙症はこの社会不安障害というものから生じている面もあります。
紹介された社会不安の特徴として
- 他者から評価、注目されることに恐怖がある
- 最悪の事態を想定して動けなくなる
- 自分の言動を理不尽に責め続ける「自己反省会」が繰り広げられる
- 不安に耐えられず行動を回避してしまう
といったものでした。
社会不安を解消する方法として、「認知行動療法」が紹介されました。これは困難となる行動に対して発生する「認知」「行動」それぞれに着目することで、悪循環を見つけて改善していく…といったものです。
身近にできる社会不安の対策としては
- 注意を内側から外側へ向ける。過去や未来に囚われず、現在に意識を向ける。今だったら人いっぱいいるなー、電球光ってるなーとか。
- 「絶対そうだ」といったひとつの考えに縛られず、色んな考え方を持つ。ネガティヴ→ポジティブというより、他の考えで鬱思考を薄めるイメージ。
などが紹介されました。
シンポジウム
4人の緘黙症当事者、経験者が登壇し、緘黙症に関する様々な話題について意見を出し合いました。スクリーンにはTwitterのつぶやきも常時表示されていました。野獣先輩の画像ツイートしたらヤバいなぁとか考えてた
小学校にけん玉を教えにいった記事で加藤さんだけ知っていましたね。今回加藤さんはPCの音声出力で発言していました。自分はそれできなかったので凄いなぁって感心してました。
浜田さんは過去の話が重かった…。どこに就職しても長続きしない、親にも理解してもらえない。緘黙症について知ったのは34歳のとき。最近になって翻訳の仕事が板についてきたそう。
緘黙症の後遺症
登壇者のらせんゆむさんが自己紹介で後遺症について話されました。今まで話せなかったから話し方がわからない、治ったことで調子に乗る…など。それでうつ病になって苦しんだと。
自分も思い当たりしかないですね…。今僕が困っていることだと
- 反射的に声が出ない(笑うとき、驚いたとき、不意に声をかけられたとき…など)
- 自分から話しかけられない(呼びかけ方が分からない、この程度の会話のネタでいいのかと悩む)
- 複数人での会話で黙り込む(スルーされたり声被ったりすることを恐れる)
などなど…。
緘黙症という名前でいいのか
改めて言われると、普及するにおいては適したネーミングとは言えませんね。「緘黙」って絶対初見じゃ読めませんもん。僕も漢字が書けるようになるまで時間かかりましたし。それに「黙」という字から「ただ話せないだけ」と勘違いされる恐れもあります。意思表示ができなかったり体を動かせなくなる症状が読み取りにくいです。
今更変えるのは普及において障害となるからこのままでいいという考えもあります。僕としては、漢字の重々しさが気持ちの重さを表現してるように感じられて好きですね。
NGワード
あまり具体的に言葉は挙げられませんでしたが、浜口さんは「友達」を挙げられました。
自分はいっぱいありますね…。
「喋れ」
「返事しろ」
とか…。これらは他人に対して発されてたとしてもビビります。というか当事者にとっては「死ね」と同義ですよね。絶対無理なこと要求してる訳ですから。
圧倒的に低い知名度
友達が緘黙症だという参加者の質問で、「周りの人に知ってるか聞いても誰一人知らない。どうすれば社会に広まるのか」というのがありました。
臨床心理などの専門でなければまず知らないでしょうね…。普及活動が全然進んでいないのが現状です。せめて教育関係者には周知されてほしいですよね。
周知されない原因として、
- 周りの人は困らない
- 本人が声を上げられない
- 症状が分かりにくい
などがあるでしょうか。自分の場合は周りの人が困るレベルだったから逆に目立ってたかもしれない...。
周りの人が症状をよく理解して、かつ当事者が対応策を考えられるようになれば、ぶっちゃけそこまで深刻にならないはずなんです。特に当事者には伝わってほしい。喋れない自分は出来損ない、こんな人間世界に一人しかいないだろ...って悲観してる人は絶対たくさんいます。
家族への理解
小学生の娘が緘黙症だという参加者の質問で、「今は不登校になっているけれど、家で喋れるのに何で学校では喋れないのかと父親が理解を示さない。どうすれば分かってくれるのか」というのがありました。本当にこれは難しい…。当事者でも何でかよく分からないから。
経験談を調べていても、家族には知られたくないとか話しても理解してくれないとかいうケースが多いですね。僕みたいに親が学校側に事情を伝えたりするほど親身になってくれたのはレアケースかもしれません。
終わりに
最後の浜田さんのメッセージは心に響きました。
「今回のフォーラムは意義があった。大人の緘黙症が取り上げられたから。『大人になったら治りますよ』が通用しない」(意訳)
そういえば小学生の頃は「大人になったら治る」って僕も何度も言われました。しかし今思えば随分無責任な発言だなぁと。
確かに大人になるまでには多くの治るきっかけに遭遇できると思います。でももしきっかけに遭遇しなければ、自然に治ることなんて絶対ないです。「大人になったら治る」っていうのは、大人になっても治ってない人が社会からドロップアウトしてるだけなんですよ。
自分から行っといて何だけど、フォーラムに参加した後は精神抉られて大変でした。以前よりは話せてるという自信と、それでも世間一般と比べると話せてないという不安の、感情の板挟みが以前より大きくなって心が苦しかったです。
それであれこれ考えた結果、講演会で話された「他人の経験と自分は切り分けて考える」が大事なんだと思い直しました。
経験者の話を聞いて、「返事とか音読できるんやったら余裕やろーー」とか、「自分は周りの人のおかげでここまでこれてるんやんなーーこんな楽してる自分が緘黙名乗っていいんか」とか、あれこれ比較して鬱になってしまっていました。
というのも、緘黙症の内容知ったとき何から何まで共感することしかなかったから、ついつい緘黙症に心酔してしまっていたんです。まるで占いを当てられまくったかのように。自分は緘黙症なんだと、同じ苦難を共にした同士が集まった新興宗教に属したような気分になっていました。みんな同じ仲間という意識が強すぎたんです。
しかし緘黙症といっても人それぞれなんですよね。他人より辛かったとか他人より楽だったとか、比較すること自体間違っていました。これは何も緘黙症に限った話じゃない。他人と自分の感情を比較するなんて愚の骨頂です。
自分としては次のステップに進んだところであるので、一旦緘黙症のことは綺麗さっぱり忘れたいです。やっぱり思い出すと気分が重くなっちゃうので。講演会でも「現在に意識を向ける」って話あったしね。今の自分が困難なことに着目して一つ一つ改善していきたいです。
フォーラムを通してこうやって考えの整理ができたので、参加してよかったなと思いました。ここもで読んでくれた方ありがとうございました!